わたしたちの明日は

演出/さとう としかつ

 この作品が書かれたのは、1960年代の初頭です。
1960年には新日米安保条約が改定され、その6年前には自衛隊が設立、日本国憲法は制定直後から改定の危機にたたされていました。
安保闘争後に成立した池田内閣は国民所得倍増計画をうちだし、日本は高度経済成長のもと急速に工業国化されていきます。
一方で地域共同体と環境の崩壊、水俣病などの公害が相次ぎ発生し、生活を破壊していきます。
世界では1950年代以降、核兵器の開発競争が激化。アメリカやイギリスに続いて、ソビエトやフランスで核実験の泥試合が続いていました。
1954年3月、アメリカがビキニで行なった水爆実験により、マグロ漁船「第五福竜丸」が「死の灰」を浴び、乗組員の久保山愛吉氏が死にいたります。
この事件を契機に世界的な原水爆禁止運動が広がり、翌1955年、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催されるのです。

 作家の小山祐士(1906〜1982)は、広島生れ。
8月6日直後の「原爆砂漠」を自分の眼で見ています。
「その泥色の狂気じみた荒々しい波音に、私流に抵抗しなくてはいられないような心境であった」「原爆の恐怖そのものズバリを、私流の文体で書きたいと思った」と、述べています。
そして氏が泰山木を執筆している間じゅう、心のなかで自分に言い聞かせていたのは、「決して叫んではいけない」「決して理屈をいってはいけない」・・・そうした事をつぶやきながら、小さな汽船が行き来している内海の静かな風景や、初夏になると白い大きな花の咲く泰山木の大樹を思い浮かべながら稿をすすめたのです。
脚本完成前から、劇団民藝が着眼。1963年に宇野重吉演出、北林谷栄主演により初演されました。

 瀬戸内海の美しい叙情と、時代の波にもまれながらも必死に生きる人々の生活と生きざまを通じ、やわらかな美しい味わいをたっぷりと保ちながら・・・・戦争、原爆、公害が人の心にどれほど大きな、また長い傷を負わせたかを静かに、しかし説得力を持って語りかけてきます。
小山祐士は「人間を書きたいんだよ。奥の奥まで。そして人間の意味を考えたい。それでこそ心の価値がわかる。生命や平和、原爆や戦争の本質がわかる」。
これが、小山祐士が唱えた、「私流」の思想・本質だったのだと思います。

 イラクでは、戦争と占領で10万人を越えた人々の命が奪われたと推計されています。
何故こんな野蛮で残虐な行為が、21世紀のこの時代にも繰り返されているのでしょう。
罪のない多くの子供たちが白血病にむしばまれ、満足な治療を受けられず日夜死んでいます。
アメリカは大量の劣化ウラン弾(核廃棄物を使用した爆弾)を武器として暴力的な空爆をしました。
イラクの大地には、320ォものウラン弾がまき散らした放射能が拡散しているからです。
広島・長崎と同じ被曝が59年後の今でも繰り返されているのです。
そのイラクに自衛隊を派遣し理由なき戦争とそれに続く占領に加担している日本。
集団自衛権の容認、自衛隊の海外派兵と武力の行使など、なし崩しに戦争への道をたどっているのでは。
戦争をする国に変える為に、9条を中心に日本国憲法を改定しようとする動き、戦争を担う子どもたちにするために、教育基本法を変えよとする動き、それらがかつてない規模で強まっています。
日本はどこへ進むのでしょうか?

 広島で被爆された片山様(日野市在住 )を劇団にお招きして、勉強会を催しました。
原爆の凄まじさと、生き地獄の心境を克明に、怒りと悲しみと痛みをもって語られました。
「原爆の傘の下で、なにが起きたか鋭い想像力をもって考えて欲しい。」
原爆で亡くなった子供たち1の写真を示し「一人一人の顔があり、一人一人の可能性があった。
広島で何万人が死んだなどと、簡単な数字で片付けて欲しくない。
一人一人に思いをはせなければ駄目だ」と、訴えられた片山さんの言葉が心に染みわたりました。
人が人を殺傷してしまう戦争を食い止める一つの鍵が、ここにあるのだと実感しました。

 「岩よ動けと、どんなに歌っても岩は動かない。しかし、皆がその岩の下に手を入れて動かそうと力を込める、その時に歌えば力になる。それが音楽だと思っています」と、作曲家の池辺晋一郎氏が語っていました。
私たちはこの時代に危機意識を持ち、平和を願い、この作品の上演に踏み切りました。
歴史と人々の暮らしを記憶し、ゆがんだ時代に抗議し、私たちの明日を築きたいからです。
演劇は言葉をメッセージし、感性に響かせる事ができます。
岩の下に手を入れて動かそうとする意思を支える力になれると信じています。

 今回20代の若者が3人入団しました。
10代から60代までの仲間と共に、原爆や戦争や公害を背負って生きた人々の姿を写真や映像を見て心に焼きつけ、人々の思いを、証言や詩や小説を読んで心に刻み込み、取組んでいます。

 来年は戦後60年、それに先立ち、小山祐士の不朽の名作「泰山木の木の下で」に挑みます。ご期待下さい。


戦争にたいする「NO」と人間にたいする「YES」を

文/佐藤 伸枝

 「原爆」は、私の人生の中でいまだに置きどころの定まらない大きな問題です。
幼いころに知った原爆の被害の「こわさ」は、今もなお私の心に重くのしかかっています。
未来に向かって歩むとする者にとって、「原爆」は「生への否定」であり、「人間への深い不信感」につながるものであり、できれば目を背けたい事がらでしょう。

 私の娘は12歳ですが、やはり、「原爆の話は聞きたくない。」といいます。
感じやすい年頃だけに、自分が傷つくことを恐れているのがよくわかります。
それでもなお私は、いま心を強くして「原爆」について語らなければならないと思っています。
なぜなら、平和への危機がこれほど感じられる時はないからです。
「戦争をする国づくり」に突き進もうとする日本、その中で教師は「戦争をする人づくり」をさせられようとしています。

 改憲とともに進められようとしている教育基本法の改悪。
教育の目的から「平和的な国家及び社会の形成者として」という部分がはずされ、「国を愛する心」なることばが書き加えられようとしています。
今や「君が代」斉唱は職務命令であり、今年東京都は「不起立」などを理由に、250名の教員を減給・戒告の処分にしました。
ある県にいたっては各校の「君が代」の音量調査を行ったとか・・・笑うに笑えない状況です。

 「大きな爆弾が落ちるといい。」・・・そんなことをいう中学生がいます。
ゲームなどの仮想世界にいきている子ども特有の表現なのかもしれませんが、それよりも彼らに共通しているのは、彼らの生活、彼らの心に平和がないということです。
未来への希望が見えないということです。

 戦争の記憶の風化と共に進行する若者のこころの空白、その行き着く先を考えるとき、私はいても立ってもいられなくなります。
被爆から59年たった今、もう一度「原爆」について知らなければ、語らなければと・・・・・。

 大江健三郎氏は『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)の中で、次のように述べています。
「僕は、この二十世紀後半の地球の唯一の地、広島が赤裸々に体現している人間の思想を記憶し、記憶しつづけたいと思う。
広島は人類全体の最も鋭く露出した傷のようなものだ。
そこに人間の恢復の希望と腐敗の危機との二つの芽の露頭がある。
もし、われわれ今日の日本人がそれをしなければ、この唯一の地にほの見える恢復の兆しは朽ちはててしまう。
そしてわれわれの真の頽廃がはじまるだろう。」今から40年近く前に書かれた文章ですが、今なお鮮烈なメッセージとして心を打ちます。

 『泰山木の木の下で』は、原爆が人々の生活と心にどれほど大きな、また長い傷を負わせたかを語っています。
しかし、つらいとかきびしいということだけを叫んでいるのではありません。
悲しみの底で生まれる人間の優しさ、再生への希望を描き、人間のすばらしさを感じさせてくれる作品です。
まさに、戦争にたいする「NO」と、人間に対する「YES」を同時に、分厚く伝える力をもった貴重な戯曲だと思います。

 多くの方に見ていただきたいと切に願います。