赤塚千明 |
私はこの作品を演じるのが嫌だなと思ったことがありました。それは自分が命に関して、前向きに生きることにマイナスのイメージを持っているからです。それは今でも変わることはありません。それでもこの作品に触れて、少しだけ命について、前向きに生きることにプラスのイメージを持つことが出来ました。具体的にどの場面が、と言うのはありませんが全体を通してそう言うパワーをこの作品は持っていると思います。だからこの作品を特に私のような気持ちを持っている人たちに見てもらいたいと思いますし、そう言う人たちの気持ちを変える何かを発信できればいいと思います。 |
飯田良子 |
この作品の出会いは、約30年位前、青年座公演をテレビで観た。その時の感動を今も忘れられない!テレビの前にかぶりつき、正座してフィナーレの画面に拍手を送った。涙がとまらなかった。「春・五月・青空・今日と言う日は二度とない…」エンディングの歌は今でも覚えている。生の舞台も観た。つい先日その青年座の海外公演のニュースを知った。時代を超え演じ続けられるブンナをもう一度みたい。私は物心ついた時には母はいなかった。母を憎んだ父はその矛先を私に向けた。小学生の時、男子は「お前のかあちゃんいないんだろう」と私をいじめた。女子どもは陰湿にいじめ集団を形成する。先生ごひいきの優等生といわれる子は特に陰湿だった。フォークダンスのつないだ手をぎゅうぎゅうにぎりつぶしてくる。それは中学生になっても続く、男子に薪を投げつけられ顔を傷つけられた、その傷は今も消えない。恐い父の居る家も、学校も辛くて三階の窓から飛び降りようとなんどもおもった。その度に家で待つ祖母の顔が浮かび何事も無い顔で帰宅する日々だった。生きることはくるしい。まさにへびの台詞のように誰からも憎まれ、避けられ、嫌われて生きた小・中学生時代だ。まさに蛇の台詞、一度だって抱かれて寝たことは無い、めったに、ではなく、一度も母に会ってはいない…物心ついてからは…。いきることは苦しい。映画の寅さんが甥のみつおに、「人生って何?」と問われる。その時寅さんは「人生に一度か二度、ああ!生きてて良かったと思える日に出会うためだよ」と答えていた。映画館の暗闇でしきりに頷く自分がいた。生きることは楽じゃない。現実の社会で苦しんだり、これからどんな風に生きて行こう・・・。そんな、心をかかええた人々へ、しかし、生きろ!生きろ!辛くても、悲しくても、くじけそうになっても生きて!生きて! 心こめて歌う! 君が僕で僕が君、貴方はひとりじゃないよと歌う! 渇望と夢と希望を込めて歌う! 今日という日は二度とない! |
石井葉月 |
この舞台ではブンナの体験した物語によって蛙達が「命の尊さ」や「命のつながり」を知って感動するように、お客さんにも蛙と同じ気持ちに、なってもらいたいです。またブンナに出てくる歌詞に私がすごく大切だと思う歌詞がたくさんあって特に「この命はみんなの命のひとつ」「誰もが尊い、誰もが大切」「辛くても悲しくても、くじけそうになっても生きて」「生きて生きて輝け」です。理由は、世の中には自ら命を絶ってしまう人が大勢いて、多分その人達は生きるという事に何も感じなくなってしまったのだと思うけど、ブンナに出てくる歌詞によって「誰もが大切で無駄な命なんて一つもない。この命は誰かの命と繋がってるから」という事知ってほしいからです。あと、生きたいと思いながら死んでしまう動物たちの様にして亡くなってしまう人達もまた大勢います。だからブンナを見た方に「辛くても悲しくてもくじけそうになっても生きていこう」「生きて輝こう」と思ってもらいたいのです。実際、生きて輝くってどうやったら輝けるの?なんて一瞬考えてしまうけど、多分それは人それぞれ違って、何かに一生懸命になったり、人のために頑張れたり……まぁそれは、お客さんに考えて頂くとして、「生きる、それだけですてきなんだぁ」とか、あと「生きて輝けた☆」って思える瞬間が毎日の中で増えて、感じられる様になってほしいです。ぇーちょっと目標デカすぎ!?まぁ目標はデカい方が良い★これくらいにしとかないと、チケットも値上がりしたしね(笑) |
石井双葉 |
「命の繋がり」「命の大切さ」こんなテーマはあんまりにも大切なことすぎて、あんまりにも大きなものだから伝えるのが大変っていうことに最近気がつきました(遅ッッ)なんで、それがこんなにも遅くなってしまったかというと、自分自身がこのテーマの重大さに気付かず、知らず(?)にいたからです。今までは、なんだかあんまりにもアバウトな(?)テーマに感じられて、どうやっていいかも分からず中途半端そのものだったけれど、稽古での生ちゃんや佐藤さんの話を聞きながら、このままではまずいと思って『一生懸命伝えよう』 としながら前回の公開稽古にでました。見ている方からだとなんの変化も無かったと思うケド、双葉の気持ちの持ち方が全然変わったしツグミを見ている時、「命のかけはし」を歌っている時、初めてこの舞台のテーマが分かった気がしました!! 最近は命を軽く扱ってしまうような事件が多いから、そんな中で、あの時の双葉みたいに「命の大切さ」についてブンナを見に来る人に気付けてもらえたらと今なら思えます。下手したら、お客さんに「へーあっそ」で流されてしまうかもしれない。でも私は絶対伝わってほしいから、そのためにはブンナの話を聞き終えた蛙たちのように皆で心を一つにして頑張れたらと思います。 「命の繋がりってスゴイ」「命ってこんなに大切なのだあ」「今日を生きていられることが幸せ」 …こんなことが訴えられたら、伝えられたらいいですねぇ。 |
河村卓哉 |
毎年日本では、3万人以上の人々が自殺をしています。これは交通事故による死亡者数をも上回っています。また、世界と比較すれば、日本は欧米先進国と比べて自殺率1位、さらに世界と比べればリトアニア、ベラルーシ、ロシア、ハンガリーなどに次ぐ世界第9位の自殺率の高さとなっています。このように国内の混乱が続く体制移行国に次いで高い自殺率ということから日本の自殺率はやはり異常な値であるといわざるを得ません。 この現実がある日本において、小さな劇団「ひの」という演劇集団ができることは、少しでも多くのお客さんにお芝居を通して生きることの尊さに触れてもらうことだと思います。「ブンナ」では、弱い蛙、・スズメ・百舌・ねずみ・蛇・牛蛙たちが一生懸命に生きようと願います。その彼らからは、生きることの尊さをちりばめた台詞がたくさん出てきます。この生き物たちの親へのおもいや、「まだ生きたい!次の冬を精一杯生きて、春がきたら雛をかえしたいんです」という雀や、「俺はいきてやる!子どもらにも会いたいんだ。」という蛇の子どもへのおもい。ツグミ・ネズミの命のつながりへのおもい・・・これら生き物の行き着くところつまり私たち人間は、誰もが必ず親であったり子であったりします。このことを考えると、親が子を思う、子が親を思うという根源的なことを多くの人々が再認識することが、現在の日本社会に必要であり、生きることの力になるのだと思います。これは増え続ける児童虐待統計を見ても切実なことです。だから多くの人に劇団ひのの「ブンナよ木からおりてこい」を観劇してほしい。 このお芝居で、ブンナの体験に感銘した蛙たちは、今日1日を生きられる喜びを感じ、昨日の悲しみを乗り越え、弱くても負けない乗り越える力を抱いて、太陽に大きく胸を張って、生きて、生きて、輝くのです。「ブンナ」を見終えたお客さんたちが、この蛙たちと同じ気持ちになってくれたら、本当に幸せなことだと思います。 |
桜井健助 弱いことは、悪いことではない |
鳶が雀、百舌、蛇などを食べる。それは地球の小さな、とても小さな場所での、だれも気に留めない日常のできごとです。これから梅雨をむかえ田んぼでは蛙がうるさく鳴き始める。同じように蛇も土の中から這い出してくる。まだまだ緑のある郊外や田舎では小鳥がさえずり蝉が鳴きトンボがとんでいる。平和でのどかな風景です。しかし、この舞台はのどかにみえる小さな場所に眼を凝らし生き物たちのサバイバル・シーンをクローズアップする。鳶に捕まった雀をはじめとする動物たちは互いに牽制しあい、生きる権利を主張する。あるいはその権利を一旦は放棄しようとするが、それは本心ではありません。その場しのぎの生き残るための詭弁にすぎません。 わたしは、この劇の中で雀と百舌の場面が印象深く残ります。他者を裏切り犠牲にしても生き残りたい。雀のあまりにも身勝手な言動にジレンマを抱き、そして、それは自身に向けられなければならないからです。窮地に追い込まれた生き物は、このような行動にでてもだれも責めることはできはしない。これが命あるものの“業”とも言えませんか。 雀「弱いってことは、悪いことじゃないよね。悲しいことに違いないけど、悪いことじゃないよね」と、どうにもならない素直な気持ちを吐露している。百舌は「強い奴が弱い奴を食って生きている。それがしきたりだ、鉄則だ、原理だ」と悟りを開き“業”の束縛からのがれたようなことを言ってはいますが、切羽詰まれば雀と変わりはない。これは登場する他の生き物とておなじです。唯一異なるのはツグミですが、これは“このようにありたいものだ”という望みではないだろうか。業を棄てないかぎりこのような心になることは容易ではありません。ただ面白いことにブンナの母が「他人のためにつくすことはよい。けれども、相手のことをよく見きわめないといけない。親切にされておきながら、その好意を踏みにじったりするものが時々いるものだ」と現実の社会に気持ちを引き戻し皮肉っている。耳の痛いところです。 この世に争いは絶えることがない。それは宗教か、経済か、人種民族によるものか。火種の要因はそれぞれ複雑ですが、突き詰めればこれも人間の業であり、国の業といえるかもしれない。和尚が「自分だけ生きられる、自分だけ幸福になろうなどと思うものじゃない」と、まとめのような言葉を言っていますが、心の片隅にでものこしておいてほしい。そして、人間も弱い生き物であることも知ってほしい。科学の力を持ってその生命力は伸びつづけている。蛙や鳥たちよりもはるかに長生きです。しかし、だから小さな生き物たちよりも幸福であるかどうか。たぶん幸せであろうとは思いますが…。 |
佐藤伸枝 |
先日、私の勤務校のPTAがアンケートを生徒たちにアンケートをとった。「親からいわれたいやな言葉は何ですか?」その一位が「死ね」であることに大変衝撃を受けた。以前から、この言葉が挨拶がわりのように使われていることがとても悲しかったが、自分を産み育んだ人が「死ね」という、という事実は看過できない。「言霊」があるかどうかは別としても、「死ね」といわれ続けた人間は、死ぬのではないかと思う。少なくとも演劇をやる人間としてはそう思っていた方がいい。 今、生と死の境界があいまいになっていると思う。「生きている」ことを確認し、「私を見て」と伝えるためにリストカットする若者、自分の存在が不確かで拒食症になっていく少女・・・・。みんな孤立化し苦しんでいる。『ブンナ』は生と死を鮮やかに、強烈に伝えている。生と死が背中合わせであり、それはひとりひとりのものであるだけではなく、他とつながっていることを語っている。これほど、今必要なメッセージはないのではないかと、稽古を重ねるたびに実感するのである。 |
佐橋飄 |
「蛙は最も弱い存在であり、環境の影響を真っ先に受ける」今回の芝居に向けて蛙の事を調べると、こんな内容の文章が必ずと言っていい程出てきます。どうやら、蛙は弱者の代表的存在であるようです。そして、強者のそれは、数の上で言えば我々人間という事になるのでしょう。しかし、<今回の芝居に登場する蛙たちは、人間の当たり前の日常を象徴している>これは、あくまでも僕のイメージですが、そう思っています。ごくごく当たり前の、極めて平凡な、平均的な日常の暮らし。それに対し、それぞれの性格や、生い立ちや、経験といった個の存在、さらに言えば本性。そういったものの象徴は、百舌、雀、蛇、牛蛙、ネズミといったキャラクターたちによって切り取られて現れます。舞台に登場する彼らは別物ではなく、わかり易く色分けされたひとつのもの、つまり対極にあるもの同士の対比だと捉える事ができると思います。 例えば、椎の木の上という死に場所、そしてお寺の沼という生活基盤、このふたつの間には椎の木の幹という壁があって、何mも隔てられています。が、これは表面的な見方でしかなく、少し視野を拡げれば実は、沼と木は同じお寺の境内に存在し、さらにそのふたつを支えるのは同じ大地なのです。こんな風に、表と裏とは一体で、ひとつのものには表と裏があるのだという事を全編を通じて感じてほしい。そして、やはり観客それぞれの内にある、性格や、さまざまな経験が、さらに欲をいえば、生と死、強者と弱者、幸福と不幸のような対極にあるものも、全てがそれぞれに=(イコール)で繋がる瞬間があればいい。そう思っています。少し漠然としてしまったので、もうちょっと絞ってはなすと、(自分の役を離れてしまいますが)今回の登場動物の一匹であるネズミの最後のセリフに「それでいいんだ」というのがあります。実を言うとこれはかなり僕の感覚に近いのです。ネズミはブンナに「命の尊さ」なんていう説教をするわけではなく、ただ生と死は繋がり、繰り返す、という当たり前の根源にたち帰り、自分の命もその繰り返し、繋がっていく生と死の内にあるという事を確信してそう呟くのです。「それでいいんだ」と僕もそう思っているのです。 最近「命の尊さ」とか「命の重さ」「命の大切さ」という言葉によく出会いますし、今回の芝居にも何度も出てきますが、それはあくまでも比喩的表現だという事に気付いてほしい、その事を忘れずにいてほしいのです。僕たちの投げかける「生きているものは命を繋ぎあっている」「だから誰もが尊いんだ」「誰もが大切なんだ」という言葉を、理屈ではなく、もっと感覚的なところで感じ取ってほしいのです。無意識にとでもいいましょうか、<命とは今を生きている事><今を生きるという事が命そのもの>そして<死を拒む事>はもちろんだが、なによりも<死を迎えられる事が生きているという事>なのだと気付いてほしいのです。観終わった後、一番印象に残ってほしい言葉を選ぶとしたら・・・・・・これでしょうか、「太陽に大きく胸をはって!」「生きて生きて輝け!」 |
清水亮宏 |
「生」と「死」について、この作品関わってから・・・いや、もっと前かもしれないが、たまにフッと考えることがある。特に新聞やテレビを見てだと思う。子供ころから母親の影響でニュースはよく見ていた、今も好きで見るが、沢山の人の「死」見てきた。(ブラン菅を通してだが)少し慣れてしまったとこがある。子供の頃に比べて、その辺が鈍ってしまったとも言えるかもしれない。逆を言えば「生」についての報道をあまり見た事がない。あったのかもしれないが記憶にない、「死」のテーマは確かに記憶があるのに「生きる」はすぐには思いだせない。それは「生きる」こと周りにあふれていて実感が出来ないのかもしれない。朝、起きて顔を洗い、歯を磨き、着替えて、電車に乗って仕事に行き仲間やお客さんと話して怒り、笑い・・・様々な事をして生きているのに鈍い。なぜこんなに鈍いのか・・・「死」は恐いことだから生きるとか「生」は恐いことだから死ぬなんて考えてるのは人間だけだと思う、ブンナの作品に出てくる生き物にこんな事を考えているものはいない。みんな生きたいから生きる。「死」を目前にするとエゴを出てくるがとてもシンプルだ。それにどうやって生きたかによっても「死」の受入れ方も違ってくるとのではと思う果たして自分はどうなんだろう・・・・・そんな事を考えさせてくれる作品なんだと思う、自分はシンプルにいく。生きたいから懸命に生きる。与えれた時を必死んだ。お客さんに伝わるよう役も必死にいきることにする。 |
清水恵 |
「うざい。死ね」私が仕事で担当している子どもたちが最近よく口にする言葉です。「死ね」という言葉があまりにも簡単に出てくることに、いつも驚かされます。言っている側は深い意味を持たずに発しているのかもしれません。生死に関わる場面に直面する経験や、そういう環境にないからこそ出てくる言葉なのでしょうか。今回の「ブンナ」には死に直面するものたちが出てきます。ひどいめにあわされ、鳶の餌食となるまでのわずかな時間。それぞれの生きざまが描かれています。生きていくためには食べなければなりません。そのために他のものの命を奪わなければならない。しかし、現在私たちの多くは直接命を奪うことに関わらなくても生きることができてしまいます。だから、つい忘れがちです。いのちのつながりについて。そのことを知りながらも、向き合うことをなんとなく避けている感があります。「自分は自分だけと思ってたけど、自分のいのちというものは誰かのおかげで生きてこれたんだ…ぼくらのいのちは、おおぜいのいのちのひとつだ…だから、だれでも尊いんだ。つらくても、かなしくても、生きて、おおぜいのいのちのかけはしになるんだ」原作の中で、木の上での出来事を経験してきたブンナがいう言葉です。このことに気づけたなら、周りの人のことをもっと大切にできるのではないでしょうか。もっと自分を大切にできるのではないでしょうか?今回の公演が、そんなことを考えるきっかけになれればと思います。 |
下平由美 |
「ブンナ、木からおりてこい」と蛙たちが空に向かって、大きく声を上げるこの台詞が題目になっている。そして、芝居の中では「大地をしっかり踏みしめて、太陽に胸をはって、今日を生きられる喜び」という台詞が最後に投げかけられる。現代社会においては、「死」は水や空気と同じように当たり前にそこに存在している。ニュースや新聞の見出しには毎日のように「殺人事件、戦争、自殺・・・」の文字が目に、耳に飛び込んでくる。あまりにも身近になりすぎて、あまりにも当たり前になりすぎて、一つの命が失われることの重大さに人々は、気づけなくなっているのではないか。「死」は簡単だ・・・たった心臓の一突きで、ほんの一瞬のうちに、それまで何年、何十年と生きてきた命が終わってしまう。本当の「死」のおそろしさや痛み、苦しみ、悲しみのある「死」、「死」の直前まで生きていたことに気づいて欲しい。痛みと悲しみ、苦しみの「死」があるからこそ、「生きている」ことの大切さや、その素晴らしさに気づけるのだと思う。 今回、雀の役は2場の幸せな時間が一瞬のうちに、百舌・ねずみ・鳶との対比によって「死」の恐怖に追い込まれていく。それでも「生きたい」と訴える「生きていたい」と思えるのは「生」の瞬間を「笑い、幸せに思い、数々の敵を逃れながらも、いつだって懸命に生きてきた」雀だからこそ、生きることへの切なる願いを訴えるのではないだろうか。一方で、「ツグミの死」のように、人生を謳歌しベッドの上でひっそりと息をひきとっていく安らかな死。「生」をまっとうした「死」がある。この「ブンナ」の芝居を通して、「生きる」ことと「死ぬ」ことの意味、二度とない一瞬をどう生き、そして自分はどう死んでいくのかを考えられるきっかけにしてもらえたらと思う。 |
袖山結生 |
まず頭で考えるのではなく、心で感じてほしい。飾った言葉を並べるよりも心の底から湧き上がってくる感動を大事にしてほしい。言うまでもないが、もちろんこの物語を通して色々な事を考えてほしいし、考えるきっかけになればと思うが、何よりもまず観る人の心を強く揺さぶるような舞台にできたらと思う。 私たちが日常で生と死を意識することはあまりにも少ない。このことは平和な国に生きていることを証明こそしているかもしれないが、疎遠になりすぎると無関心になりやすい。そしてそれは多くの人たちに共通することだと思う。この「ブンナよ、木からおりてこい」は、とある世界で起こった残酷な物語、では決してなく、今私たちが生きているこの世界のあらゆる場所で、途切れることなく続いてきたごく日常的で、且つ不可欠な出来事なのである。人間はあまりにも自然を支配している、もしくは支配していると信じているので、弱肉強食というごく自然な摂理を意識させられることはほとんどない。しかし、人間も他の動物たちと同様、毎日生きていくために多くの生き物を食べている。普段の食事のなかには多くの生命が私たちの生命と引き換えに犠牲になっている。このことはブンナの世界とちっとも変わらないのだ。人間も自然界から切り離されているわけではない。このことは当たり前すぎて、忘れやすい。 鳶に半殺しの目に合わされ、雛の餌として連れて行かれる身の動物たち。瀕死状態の彼らは、それでも生きたい、生きようともがく。生きたいという激しい衝動は皆同じ。そこには綺麗事も美しいやりとりもない。ただただ、死を間際にした動物たちが、醜い自分をむき出しにして他を身代わりにしようとしたり、自分だけ生きようとしたりする。しかし彼らはそんな自分の行為を反省し、涙したりする。だからこそ胸を打つ。弱いことも、生きたいと思うことも決して悪いことではない。ただそこには、弱いものは強いものに食われていくという厳しい自然の摂理が存在するのみだ。 いのちのつながり。初めてこの物語を読んだときに衝撃を受けたものだった。鳶に連れて行かれることのなかったネズミは、ボロボロになった体で必死にブンナに命を託して死ぬ。この物語の最後に連れて来られるツグミは、死という自分の運命を受け入れる。彼女は母親が蒔いた種が大きな木になっているのを見て、自分自身も母親の言いつけ通り種を蒔いた、そうやって命がつながっていくことで喜んで死ねると言うのだ。 カエルという弱い生き物の視点から世界を見ると、自分たち弱いものは強いものに食われる被害者かのようである。しかしいのちは廻りまわっているということ、あらゆる動物たちがいのちをつなぎあっている、そして自分たちもその一部だということを学んでいく。椎の木の上の出来事をブンナから聞く姉蛙として舞台に立つときも、初めてこの作品を読んだときの衝撃や感動を表現し伝えたい。そして観る人にも、この世界に生きているものとして、心を動かしてもらいたい。 |
田中浩二 |
今回のブンナでは、命のことはもちろんですがそれに付け加えて「創造する感受性」を伝えられたらとおもいます。今、あなたがしていることは将来的にどう自分に降りかかってくるか、またその行動をとることで、周りの人がどうなるかを考えることができればよいと思います。演技のみで鳶につかまるシーンなどのエチュードを見て想像することで感受性は高まると思います。さらに、未来を考える力や人とのつながりの大事さなどが伝われば、困ってる人を助けたりして優しい心を持ち直し決して殺人なんか起こらなくなると思います。命を繋ぎ合っているとこまで、断定してメッセージするだけでなく、普段の生活すべてからみんな目で見えないところで生活(命)を支えあっているとこまで伝え切れたら大成功だと思います |
中西基貴 |
生きるということ。死ぬということ。普通に生活しているとあまり考えないこと。そんな事を考えさせるブンナという作品。それによって普段口にしている肉や魚、自分達も他の命をもらって生きている事を再認識させ命に対する考えが少し変わった。 |
広岡直樹 |
椎の木の体験はブンナにとってどういった意味があったのだろうか?ブンナが体験したことは、死を間近に感じたことではない。そういったことは椎の木に登る前にも何度となく経験している。大事なのは、ブンナ達蛙とは違った生き物が死に直面したときの心境を知ったことである。誰もが弱気になったり、自分が生きるために他のものを犠牲にしようとしたりする様子を目の当たりにする。そして死ぬ間際のネズミに、「命は回りまわっているものだ。」ということを教えられたことである。では、椎の木の体験はブンナにどういった変化をもたらしたのか?ブンナが椎の木での体験をした後も、ブンナ達を取り巻く環境は何も変わらない。相変わらず蛙は弱い部類の生き物として生き続けなければならない。もちろん、ブンナ自身も相変わらず蛇や鳶が来たら逃げ、和尚さんのまいた餌や羽虫を食べる日々を続けるだろう。傍から見ると、これまでと何も変わらない生活を送っているように思える。 だがブンナがこれまでと決定的に違う点、それは自分より強い生き物・弱い生き物に関わらず、誰しもが死に対して恐怖を持っていることを知ったこと。そして自分達は被害者になることも加害者になることもあるということを知ったこと。そしてブンナ達が生きている弱肉強食の世界においては誰が敵ということではなく、自分がそうであるように誰もが生きるために誰かを食べており、生き物である以上、誰もがその業を背負って生きているということを知ったこと。その意味では、生き物は全て平等であるということを知ったこと。そういった現実を全て受け入れ、「だからこそ今日生きている事は素晴らしいことなんだ。昨日の悲しみは忘れよう。」と思えるに至ったことだと思う。 |
稲田透香 |
・最近は命を粗末にする人が増えているのでそのことを改めて考え直して欲しい。 ・食べ物は誰かの命である。なのでありがたく食べるべきである。 ・本当に良い環境、悪い環境なのか今の環境を大切に考えて欲しい。 ・命の尊さについて少しでいいから考え自分なりのでいいから結論を出して欲しい。 |
大無田樹 |
僕はブンナを作った(書いた)人はみんなに「命の尊さ」を伝えたかったんだと思う。百舌、雀、蛇、ネズミは生きたい、死にたくないと思って死んでいってしまうが、それは人々が忘れた悲しい真実なので、公演を見に来るお客さんに「命の尊さ」を伝えられるように頑張っていきたいと思う。 |
北谷多嬉 |
【「ブンナよ木からおりてこい」というお芝居を通じて、自分が訴えたいこと・・・】について (良く判っていないようなので質問形式にしてみました。Qは父、Aは多嬉) Q:あなたの役はなんですか? A:おたまじゃくしと子ガエルです。 Q:他にはどんな物達がでてくるの? A:沼ガエルや土ガエル、モズ、スズメ、ヘビ、ネズミ、ツグムとか・・・・。 Q:このお話はどんなおはなしなの? A:カエルのブンナが木の上に登って7ヶ月たっても帰ってこない。降りて来た時、木の上での7ヶ月間の出来事をカエル達にお話をするの・・・。 Q:ブンナは、なんで7ヶ月も木の上にいたの? 7ヶ月間何を見聞きしたの? A:鳶の餌になるのに連れてこられたヘビ、モズ、スズメ、ツグミとかが喋っている話を聞いていた。ヘビがいたから食べられちゃうから隠れて出られなかった。 Q:ヘビ、モズ、スズメ、ツグミとかは、どんな話をしてたの? A:モズは鳶の餌になるのが嫌で、力を付けて逃げるために、スズメを食べようとしてた。スズメは食べられたら死んじゃうから木下にカエルが居ることをモズに話してた。 Q:他には・・・。 A:ネズミは一度逃げたけど、また鳶に捕まって、木の上で死んじゃった。でもネズミは、鳶の餌にならないで死んじゃったから悲しくなかった。 ツグミは、鳶の餌になるのは嫌だけど、自分のやりたい事をやり遂げたら死んでもいいと思ってた。 Q:どうゆう事? A:ネズミは、私が死んだら羽虫が出てくるからそれをブンナに食べてもらいたかったから。 ツグミは、やりたい事をやったけど、誰かに食べられたりするのが嫌みたい。 Q:鳶に捕まった餌達は、食べられたり、死んじゃったり、逃げたりしてるようだけど、どうして? A:皆生きたいし、食べられたくない。でも食べないと力を付けてそこから逃げられない。 皆命が大切だし、ブンナも怖かったけど、怖さに負けないで生きるための勇気を出した。カエルは羽虫達のおかげで生きている。 Q:そのあたりがこのお話の言いたかった事かな? A:そう! 命が一番大切だって事。皆生きたいし、でも羽虫とか誰かを食べないと死んじゃう。 Q:「生」の字は、「生きる」とも「生まれる」とも読むね。「生まれる」てことは「生きる」って事で、「生きる」てる事は「生まれる」って事なんだし、くどいけど、生まれたら生きなければならないし、生きたからには生まなければならないて事をどう思う。 A:それもこのお話で言いたかった事だと思う。私も生きてる。でも牛さんや豚さんを食べてる。食べないと生きられない。牛さんや豚さんは死んじゃう。でも私も生きたら何かが生まれる。 Q:そんなところかな。では今日はこのへんで。劇頑張ってください。 A:はい頑張ります。ではオヤスミナサイ。 |
篠原咲樹 |
「いのち」……これが今回の劇のテーマ。3文字ではおさまりきるはずのないこの言葉を、わたしはどれだけ口にだしてきたのだろうか。「いのち」それは、この世に生きるものすべてが生きるために授かったもの。この世の生きるすべてのものが「生きる」権利をもっている。もしかしたら、義務なのかもしれない。「生きられる」というよりも、「生きる」だと思う。それは確かに、自分だけでは生きられない。誰かの力をかりて、今の自分がいるのだから。けれども、生きるものは結局、自分で「生」と「死」に向き合っていくものだと思う。 わたしは常に「生きる」と心の中で思っている訳ではないけれども、身体の中では絶やさず血液を送り出しているし、心臓だって止まることなく動いている。そうでないと死んでしまう。わたしたちの生活は常に、「生」と「死」に直面しているのだ。 わたしが言えることではないけれども、現代では、殺人事件、自殺、いじめなど、「いのち」に対する思いが薄くなっていると思う。だからわたしは、生きていることの、「いのち」があることの大切さ、素晴らしさ、そして、「いのち」の尊さを訴えられたなら、『ブンナよ木からおりてこい』この作品を演じて、これより嬉しいことはないと思った。 |
住田敬史 |
ぼくは、今度の劇で、蛇、ネズミ、百舌、すずめ、ツグミ、うしがえるなどの死によって、ブンナが「みんながみんな、教えてくれました、命の尊さを。」と言う時に、この劇の意味を、観ている人に真剣に考えてほしいと思います。この劇でぼくが伝えたいことは、命の大切さです。つい最近、ミャンマーではサイクロンが、中国では大地震が起きました。この災害のせいで、たくさんの人が亡くなりました。そして、家族や友達を失って悲しんでいる人達がたくさんいます。すごくかわいそうです。ぼくは、友達と「もし、明日の朝、死んでいたらイヤだよね」と話しました。その時、初めて、毎日当たり前のように生きているけれど、よくよく考えてみれば、生きていることってすごいことなんだな、と思いました。ぼくは、今、死にたくないし、生きたいです。でも、地震などで命を落としてしまう人達は、生きたくても生きられなかった人達です。ぼくは、このお芝居で、みんなに「生きるって大切なんだよ」と伝えるためにがんばりたいです。 |
高林宏志 |
・命の大切さ、尊さを知って欲しい。 ・命は掛替えのないもので、一人じゃなくほかの人ともつながっているということを知って欲しい。 ・今生きていること、食べていることは当たり前じゃなく、とても幸せだということを知って欲しい。 ・どんなに苦しく辛いことがあっても、一生懸命生きてほしいということ。生きていれば良いことも必ずあるということを知って欲しい。ということなどを伝えたいです。 |
竹内みなみ |
この世には、強い者と、弱い者がいて強い者が弱い者を、食べて生きている。不幸は、いつも幸せの背中合わせに住んでいる。 |
中土翔太 |
この作品を通して、命の大切さや、いろいろなことをまなびました。もちろん、その思いをげきでせいいっぱい体で表現し、お客さんにこのげきをどう見てくれて「命」が大切と言うことをしってお客さんが帰ってほしいです。そしてぼくは子がえるで、しいの木でおこった物語を聞いているたちばだけど、アドリブやいろいろなことを自発的にやってもっと命について表現したいと思います。とにかく、命について伝えたいと思います。 |
中土敬太 |
いのちをテーマにしています、いきることをやめないとするかえるのものがたりです、いきないとはんだんしているどうぶつもいます、とびにさらわれたどうぶつもいます。 |
野村綾子 |
このお芝居は弱肉強食の世界に生きる動物を登場人物にすることで強いものと弱いものをはっきりと区別していると思います。そのことで食うものと食われるものがうまれ、命について考えます。 しかし弱いものと強いものは、他にもあるとおもいます。椎の木につれて来られた動物達は皆自分が助かるために他の動物を犠牲にしようとしました。雀はブンナを犠牲にしようとしました。 |
山田雄己 |
この間、中国四川省大地震に関するニュースをみた。その時、学校などの公共施設が崩壊している映像が流れた。なぜ、災害時に避難場所にならなくてはいけない所が、崩壊するのか。原因は、「おから工事」と呼ばれる、工事だった。「おから工事」とは、いわゆる手抜き工事のことだ。なぜ、学校など人が多く集まる所に、おから工事をおこなったのか。もっと、大勢の人の命を大切にしてほしいと思う。 |