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今月のクローズアップ
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[2009年10月]
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櫻井 健助さん
今月の劇団員 櫻井 健助

「いらっしゃい。すぐ分かりましたか。初めての人にはなかなか分かりにくい場所でね。」

……町田の駅からバスで来ました。バス停から少し迷いましたが、四角い家でなんとか分かりました。ここにはもう長いんですか。

「25年くらいですかね。越して来た当時はこの前に花屋さんの畑があり花が栽培されていたんです。それが駐車場になり住宅地になりました。この家も出来たばかりの頃は見かけはよかったんですが、今はあちこちいたんでもう山小屋ですよ。
まあどうぞ掛けてください。お茶でもどうぞ。」

……ありがとうございます。私はタウン誌の編集をしています。今日は退職されてからの楽しみ方を紹介する特集として取材させていただきたいと伺いました。よろしくお願いします。

「そうですか。私のような暮らし方など取材されても記事にはならないでしょう。世間話ぐらいはできますけれど、それでよろしければ。」

……私はいろいろな方とお会いしてお話しを伺っていますが、一人ひとり生き方が異なっています。当然のことですがそれが面白いといいますか、団塊の世代の人たちにも参考になるのではという意図も含めまして。

「そうでしょうね。人それぞれの生活がありますからね。私も家内と息子の三人暮らしで、平々凡々の毎日で別段変わった生活をしているわけではありません。私には私の生き方しかできませんから。(笑)」
……ところで、この町に住まわれる前はどちらに。

「私は愛知県の出身です。愛知ですと答えると、あのミャアミャアいう言葉ですか? と訊かれるのですが、あの言葉は名古屋の話し方です。私は静岡に近い三河の生まれです。三河といいますと徳川家康の出たところですが、家康は岡崎の方で私は奥三河という山奥です。名古屋とはだいぶ離れていて、言葉や習慣は浜松や静岡に近いでしょうね。
  高校まではそこで育ちました。今は市になっていますが私が子どものころはまだ村でした。特別な産業がある土地でもなく、豊かな村でもありません。そのぶん自然はきれいでした。とくに川がきれいです。水が透き通っていて川底がくっきりと見え、魚が泳いでいる。あの光景は自慢するところですよ。」

……風光明媚な環境で過ごされたわけですね。昨今では町おこし村おこしなどと、自然そのままでは生きていけないということで、観光だ工場誘致だと騒がしい地方も少なくないと思いますが。
「私の生まれた村は山に囲まれて狭いですから、あまり工場を造るには適していないのでしょうね。過疎地といってもいいかも知れません。人口も少ないですから小学校も一学年一学級しかありません。同級生が30数人しかいません。ですからクラス替えなんてありません。入学から卒業まで同じ顔ぶれですから、小学時代がいちばん懐かしいですね。小学6年間のうち4年間は同じ担任の先生です。それも遠縁にあたる人でしたからね。
  木造の校舎も廃校になってしまいました。帰省したときにその場所に行ってみたりするのです。校舎の一部や校庭が残っていますが、寂しい気がします。広く感じた校庭もいま見ると狭いですね。」

……高校を卒業されて上京されたそうですが、その頃はどちらに住まわれたのですか。
「学生時代は吉祥寺に下宿しました。井の頭公園のすぐそばで静かで、桜の頃は結構賑わっていました。社会人になると川口、結婚してからは京王線の八幡山に数年、登戸に数年いて町田に移ってきたわけです。」

……これまでどのような仕事をされていたんでしょう?

「普通のサラリーマンですよ。技術者でも営業マンでもなく普通の…。あるとき上司に営業はだめでしょうかと尋ねたことがあるんです。そしたらその上司は即座に、あなたは営業には向かないねと言われましたよ。私自身そう思っていましたからショックではなかったけれど。どうも私は話し相手が気にしていることを無頓着に言ってしまったりするから、確かに営業には向かないでしょう。社内では変わり者に見られていたようです。」

……そうですか、そうは見えませんけど。

「いや、私も気になっていることなので普段は愛想よくしているんです。家内が言うんですよ、あなたは外面はいいんだからってね。」(笑)

……そうですか、少しくらい変わっていたほうが面白いんじゃないですか。
  ところでいまは演劇をされていると伺っていますが、昔からその道に興味があったのでしょうか。

「特に芝居に興味があったわけではないんです。俳優座、文学座、四季の劇を観たことはあります。前衛舞踏の山海塾だったと思うんですが、ショックを受けたことを覚えています。こんな舞台があるんだと。
あるとき町田の市民劇団の発表公演があって暇つぶしに観にいったんです。無料のね。演じている人たちはもちろん素人の方たちですが、楽しそうにやっているのを観て、なるほど、退職したら私もやってみようかなと思ったんですよ。軽い気持ちで。
  その後、市の広報に募集の記事をみつけたとき応募したんです。審査もなにもありませんから誰でも入れるんです。中学生もいれば私よりも年配の方もいます。経験のない人が多いのですが、なかには学生時代に演劇部にいた人も何人かはいました。」

……でも、よく劇をしようと思いましたね。普通では考えそうもないと思うのですが。

「知り合いの者もみんな驚いていましたよ。そのような趣味があったなんて知らなかったってね。私自身も芝居をやるなんて考えてもいなかったんですから。
  はじめて舞台に立ったときはあがりましたね。何しろ小学校の学芸会以来ですからね。人前で喋ったこともない人間が演技をするんですから、心臓が破裂するんじゃないかと思いました。足はガクガクするし…。でもね、幕が下りて拍手をいただいたときは感動しました。あの感動は忘れませんね。乞食と役者は三日やったらやめられない、というけれど、そのとき思いましたね、これだなと。」

……そうでしょうね、楽しいでしょうね。芝居をするなんて。

「ははは。みんなそう言うんですよ、楽しそうでいいですねって。私もはじめる前はそう思っていましたけれど、とんでもありません。いまでも楽しいなんて感じたことはありません。結構つらいんです。楽しいなんて思っている時間はありません。」

……町田の市民劇団ではどのような芝居をされていたのでしょうか。

「町田の市民劇団に3年くらい参加していました。そこでは歴史劇が多かったです。中国の始皇帝、細川ガラシャ、女性解放運動の平塚らいてう、作曲家の瀧廉太郎、詩人の金子みすず、最近では中国清朝末期に活躍した女性革命家の秋瑾です。秋瑾は留学生として日野の実践女学校に在籍していたことがあります。」

……日野に移られたのは何か理由があるのですか。

「特別な理由はありません。ただ町田では同好会のような雰囲気が強いように感じてきたからでしょうか。みんな楽しくやっているのはいいのですが、真剣さが薄いというか。演出家を兼ねておられる主宰の先生のお考えは、演劇の裾野を広げることを目標にしておられるようで演技についてはあまり厳しいことは求めていません。それに甘えて劇団員の構え方が緩いというか。
  それで他の劇団ではどんなことをしているのだろうと考えるようになりました。
  そのような折に「劇団ひの」を知りました。この劇団の芝居を観たこともなかったのですが、稽古場を持っているのも魅力でもありました。経験不問、初心者歓迎ですし。」

……それで、劇団ひのはどうでしたか。

「私が入ったときはちょうど稽古場を新しくするときで、旧稽古場の解体をはじめる最中でした。ですからそのための引越し作業を手伝う羽目になってしまいました。俺はこんな力仕事のために来たのではないぞと思ったりして。(笑)
  そのころは次の公演の準備もはじまり、日野市の公民館とか市民センターなどの施設や民間の体育館を借りての稽古でした。そのたびに車に小道具を積んで運び込んでね。何しろ稽古場が無いわけですから。つらかったですね。」

……ひのでの初舞台はなにを?

「“ブンナよ木からおりてこい”という水上勉の作品でした。私にも台詞を用意してありますから、と劇団の代表であり演出の佐藤利勝氏に言われまして喜んだのですが、飛んで火にいる夏の虫というか、私のような年配者がいなかったようで、寺のお坊さん役でした。この役は面白くなかったですね。」

……面白くなかったとは?

「いや、役に対してというよりは劇団そのものが肌に合わないなと感じたと言ったほうがよいのかな…。僧侶の役ですから頭も短くしてくれと言われて。意地で三分刈りの丸坊主にしました。
  この劇団は日野在住の人がほとんどで、それで纏まっているんですよ。いい意味でね。だから私のようなよそ者が入りにくいんです。まあこれは人によって異なるでしょうが、私には馴染めなかったのです。それに夜の稽古の日もあって、町田から冬の夜に日野に通うのがつらく感じまして。でもいまはその気持ちは変わっています。
  それから、その劇は児童向けの劇で子どもが大勢出てまして、やりにくかったこともあります。私は子どもと一緒に劇をしたことがありませんでしたから。」

……でも劇団を辞めてはいませんよね。

「その公演を終えて退団しました。ですからいまは劇団員ではなく協力ということになっています。準劇団員でもなく…何といったらいいのか。」

……その次は今年の冬でしたか“ジプシー”に出られますね。

「あの公演も既にキャストが決まっていたらしいのです。建設現場の監督役の方が病気でおりることになり、不思議なおじいさんの役に決まっていた役者さんが監督役にスライドして、私がおじいさん役になったというわけです。この芝居はいい劇でした。舞台も建築中のマンションの一室だけで、劇そのものが纏まっていたのでしょうね。」

……演出はどのような方がされているのですか。

  劇団の代表である佐藤利勝氏。この方にはいつも感心させられます。何しろ会社の仕事よりも劇団のほうに生活を賭けているような人に思えますからね。劇団という船の船長さんですから当然かも知れませんが。演出の技量に優れた力です。緻密で繊細な演出をされます。台本の本質を読み解く洞察力には感嘆します。そこまで深く読むのかと。
  ただ演技するこちらにとってはつらいときもありますけど。(笑い)しかしあとで考えてみると、なるほどと納得します。いつの間にか佐藤氏の思う方向に舵をとられています。少しは役者の演りたいようにさせてくれないかなと思うこともありますけれど、こちらに演出家を納得させる演技力が足りないということでしょうね。」

……ところで「劇団ひの」に入っての感想などは…。

「そうですね、私が芝居をするようになってよかったなと思うことは、いろいろな人たちと出会えたことでしょうか。はじめのころは馴染めなかったわけですが、人を知ることによって楽しさが分かってきたのでしょう。
  社会人の方や学生さんなどいろいろな立場の方がいます。時間的にも非常に厳しい環境にありますから、そのなかで稽古に参加するのはたいへんなエネルギーを要します。私がこうして芝居などしていられるのも時間的にはゆとりがあるからで、勤めていれば私にはとてもできないでしょうね。ですからみなさんが稽古に励んでいることに頭が下がります。
先にも言いましたが市民劇団にはない環境をさがして日野に来たわけですが、グレードの高さを受けとめるとともに厳しさも感じています。厳しく教えられることを望んでいますが、厳しくて嫌になることも正直あります。矛盾していますが本音だからしょうがありません。(笑)
  台本が配られて、内容の勉強会から始められますが、それに多くの時間をさきます。これは役作りには必要なのですね。このことは日野に来てから経験したことです。いままでは自分なりに図書館に行って少しは調べたりしましたが、このように本格的にはしていませんでした。“二十四の瞳”では小豆島まで行かれたそうですからね。
  照明も音響も本格的です。プロの方が面倒をみてくれています。それにこだわりの演出家、佐藤利勝氏が加わるのですからね。
  アマチュア劇団ではありますが、だいぶプロの劇団に近づいていると言えるのではないでしょうか。ただ団員はそれぞれに職についていたり学生であったりしますから、そのような条件のなかでどこまで出来るかということが、一つのハードルになっているかと思います。役者の劇に対する構え方も温度差がありますからね。このあたりが代表としての佐藤氏の頭の痛いところとなるかも知れません。」

……劇団への想いといいますか、望むようなことはありますか。

「今後どのような劇をされるのか興味があります。悲劇でも喜劇でもいいですから、観客を感動させ楽しんでもらえることがどこまで出来るかでしょうか。古典劇をして基本を身につけることも無駄なことではありませんし、現代に即した演目もいいのではと思います。ただあまり優等生になる必要はないと私は思うのです。創作劇にも失敗を恐れず挑戦しても良いのでは…。
いずれにしても特色のある劇団になってほしいですね。東京に“劇団ひの”あり、と。
  素人の私が生意気なことを言う資格はありませんね。(笑)」

……お忙しいところ、ありがとうございました。

(自作自演)